本 堂
平成24年着工 平成25年6月完成
現在の本堂は6回目の再建です
本堂外観
本堂内陣
本尊 大日如来(非公開)
享保十年(1725年)より安置されております
子ノ権現(ねのごんげん)
弘法大師と同時代に実在した女性の修行僧 子ノ聖(ねのひじり)は諸国行脚の末 秩父吾野に居を定めた聖人です。
昇天後、弟子により大権現と崇められ仏様となりました。聖人自身が腰下を傷つけ苦しんだことから足腰の、特に女性の腰下の病に霊験ありと広く崇敬されております。
秩父から勧請されたこの仏様を元は境外地に権現堂を構え安置しておりましたが現在は本堂わきに遷座しお祀りし、毎年十月の御開帳には近隣からの参拝者を迎えております。
恋ヶ窪伝説
傾城墓 一葉松
当山には鎌倉時代から伝わる古い伝説が残っております
恋ヶ窪 この地名の由来には諸説ある。
中世には鎌倉街道沿いの宿場町として発展し、国分寺市の中でも最も古い地名の一つとされている。「恋久保」「鯉ヶ窪」など様々な字が当てられてきた。由来は、現在の府中市にあった武蔵国の「国府」近くのくぼ地だったから「こくふがくぼ」がなまったという説。くぼ地に綺麗な清水が湧いており、鯉を繁殖していたので「鯉ヶ窪」など様々な説がある。なかでも鎌倉〜府中を経て奥州へ向かう古道の宿場町として栄え、妓楼(ぎろう)も軒を連ねる華やかな街であったことから「恋」に通じる意味の「恋ヶ窪」になったという説など多々存在している。
傾城墓
傾城墓 傾城由来碑が境内の階段横にございます
東福寺には、そんな鎌倉時代から伝わる古い伝説が残っている。
源平の騒乱期。源頼朝を統領とし、打倒平氏の旗の下に集まった東国武士たち。その中に、「坂東武者の鏡」と賞された武将・畠山重忠がいた。頼朝上洛の際は先陣をつとめ、ひよどり越え(1148年 一の谷の戦い)の難所では、愛馬を背負って越えたという逸話を残す猛将である。その重忠の心をとらえた美しい女性ー遊女の夙妻(あさづま)太夫が、ここにいた。この伝説は秩父の武将 畠山重忠と遊女の夙妻太夫の悲恋物語である。武蔵武士団の棟梁で、誠実な名将として知られた重忠は、鎌倉との往復の際、必ずこの地に立ち寄り、夙妻太夫のもとを訪れた。大変美しい夙妻と重忠は逢瀬を重ねるうちに、いつしか深い愛情が生まれたものの、重忠は平家を討つために西国に出陣する命令を受ける。夙妻は「一緒に連れて行ってほしい」と泣いて懇願するが叶わず、泣き暮らす日々を送っていた。ある時、夙妻に熱をあげる男が、気を引こうとするあまり西国にて重忠戦死の嘘の知らせを伝える。夙妻は男の言葉に全てを打ち砕かれ、悲観に暮れて「姿見の池」に身を投じて自害してしまう。
畠山重忠公の像
埼玉県深谷市 畠山重忠公史跡公園
©︎深谷市教育委員会
姿見の池
国分寺市西恋ヶ窪
当山に伝わる傾城墓由来
里の人達は、太夫の死を哀れみ、一本の松を植えて墓標としたという。松は重忠を思ってか、西へ西へと傾き伸びていった。葉が一葉しかなかったことから、一葉松(ひとはまつ)としても知られている。
現在、三代目の若木が東福寺境内に立っている。その横に「傾城墓(けいせいぼ)」と刻んだ小さな石塔が一基、せつない恋に散った女の霊をまつる。後世に至るまで、人々はこの話を美しく語り継ぎたかったのだろう。「恋ヶ窪」の名は、そんな荒武者と遊女のロマンスから名付けられたものだという。
[参考記事] 日経新聞 地名は語る
1999年11月17日付け読売新聞 多摩へんろ
一葉松(ひとはまつ)
現在の一葉松は三代目となり境内の階段横にございます
東福寺 恋の鐘
全国でも珍しい「恋」のつく地名 恋ヶ窪に東福寺はございます。
恋のつく鉄道の駅名(西武鉄道 国分寺線 恋ヶ窪駅)はさらに珍しく 全国に4つしかありません。
当山境内にございます 福猫をモチーフとした「恋の鐘」を鳴らして良縁をお祈りください。
福猫の”かぎしっぽ”は幸福を”ひっかける”と云われており、恋のパワースポットで沢山の幸福を得られますようご参拝される皆様の願いをお守りします。縁結びのお守りもございます、寺務所へお声かけください。